精神性への敬意と「スピ系」へのスタンス
精神世界や祈り、オカルトには昔から強く惹かれている。
- 祈り
- 儀式性
- 象徴
- 感情
- 目に見えないもの
- 「意味」によって人が救われること
そういうものへの関心は深いし、自分自身も大切にしているものである。ちなみに美輪明宏さんワナビーである。
一方で、いわゆる世間一般の「スピ系」と呼ばれる文脈には少し距離を感じている。
ただしそれは、精神性や各個人が信じる行為そのものを否定するつもりがないばかりか尊重する立場であり、ましてや真実性について異論を唱えたいわけではない。
むしろ 誇りを持って人を救おうとしたり、心や感覚を大切に扱おうとする姿勢には敬意がある。
世界の捉え方
自分という一個の人間の中では以下が矛盾せず同時に存在している。
- 科学 (物性/現象)
- 工芸
- UX
- テクノロジー
- 詩
- 祈り
- オカルト
- 感情
- 儀式性
それぞれを別々のインターフェースとして扱っている感覚。 「どれかだけが正しい」という整理の仕方をあまりしていない。
距離を感じるもの
違和感があるのは精神性そのものではなく:
- 排他的な思想
- 精神性の序列化
- 権威化
- 過度な断言
- 雑な万能説明
- テンプレ化された自己演出
など。
特に:
- 「あなたは低次にいる」
- 「波動が低い」
- 「気づいていないので助けたい」
- 「信じないと救われない」
のような構造には自分自身を置けない。
かといってそれらを信じる人を強く否定したいわけでもなく、あくまで自分に無関係の世界観として 「ふーん」と受け止めている。
「量産型スピ」という感覚
たびたび夫婦間で常用する「無添加女子」というカテゴライズと同じ感覚の言葉選び。
本来大切なはずのものが:
- ラベル化
- 記号化
- 所属化
- 承認欲求化
していくことへの違和感と無関心を表現する創作単語である。
特に、精神的自由を語っているはずなのに、結果として均質化していく奇妙さといったらない。
それを簡潔に表現する言葉が見つからず、ただただ
(' 〜 ')
みたいな顔になってしまう。
「気づき」「手放し」という言葉
本来はどちらも人生にとってとても大切なもので、ポジティブな言葉たちとして捉えている。
ただ、 SNS的文脈では:
- 自己演出
- 完了宣言
- 優越感
- 雰囲気ワード化
しやすい。
自分にとって本当の気づきはむしろ:
- 恥ずかしい
- 未熟さの発露
- 痛みを伴う
- すぐには言語化できない
もの。
「今まで知らなかった」 「ずっと執着していた」
を人前で堂々と言う感覚にはなりづらい。
また、自分が本当に手放せた時は「そういえば最近忘れていた」くらいの温度感になる。
そういう感覚で生きている視点からは、彼らの「手放しました」という宣言に距離を感じざるを得ない。
精神性と創作
祈りや手当ての感覚は、むしろ積極的に創作の中に折り込んでいる。
ただし、それを真正面から言葉にすると わたしにとっては少し違うものになってしまう。
「これは祈りです」
と、断言するのではなく
「これが、祈りぺそ。」
と、はにかみながら照れ隠しするくらいの 余白を含んだ表現のほうがしっくり来る。
理想の反応としても
「あいつ、まーたなんか言ってるよww」
くらいに笑い飛ばしてほしい。 間違っても、崇められたくない。
「祈り」はごくありふれた日常として、生活や関係性の中に自然と「ただ、そこに在るもの」であってほしい。
現在地
改めて、重ねて。
精神性を否定したいわけではない。
むしろ自分が大切にしているものだからこそ、商品化・権威化・テンプレ化された時に 口元が少し (' 〜 ') とモニョついてしまうのだ。
自分にとって大事なのは:
- 信じる自由
- 参加しない自由
- 多様な世界観の並立
- 押し付けないこと
- 境界線を保った共存
なのかもしれない。